師走の慌ただしさの中でも、本を開けばそこには静かな時間が流れています。
今月は数学の入門書で新しい視点を得たり、馬琴の古典で江戸の世界に浸ったり。
一年の締めくくりにふさわしい、深く味わえる本たちと過ごしました。
南総里見八犬伝/曲亭馬琴 石川博 編
「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が刻まれた霊玉と、牡丹の痣を持つ八人の犬士たちの壮大な物語を描いた、滝沢馬琴の大長編伝奇小説『南総里見八犬伝』。本書は名場面とあらすじで物語を辿る解説書で、事前に平岩弓枝さんの『南総里見八犬伝』で現代語訳の流れを掴んでいたこともあり、より深く物語の構造が理解できました。古典文学に馴染みがなくても、八犬伝の魅力や馬琴の語り口に触れられる一冊。初めて八犬伝の世界に足を踏み入れる方にもおすすめの入門書です。

この本の魅力は、現代語訳で内容を理解した後、フリガナ付きの原文で馬琴の文章そのものに触れられる点。江戸時代後期の言葉遣いながら、馬琴の語り口には独特のリズムと軽妙さがあり、古典に不慣れな私でも楽しく読むことができました。八犬士それぞれに魅力がありますが、中でも信乃の活躍には心躍らされます。何度も映像化・舞台化されてきたのも頷ける、現代ファンタジーと並べても遜色のない圧倒的な物語世界に脱帽です。
椿説弓張月 1~5/曲亭馬琴
歴史上実在した源氏の武将・源為朝を主人公に、馬琴が壮大な物語を紡ぎ出した長編伝奇小説。強弓で知られる為朝は、御所での無礼が原因で九州へ下向し、武勇で九州一帯を支配。保元の乱では崇徳院方として戦うも敗れ、伊豆大島へ流刑となります。しかし物語はここからが本番。史実を越えて、為朝は琉球王国へと渡り、新たな戦いに身を投じていくのです。民のために戦い、悪を許さない武将の生き様を描いた、スケール満点の冒険活劇です。
- 源為朝(みなもとのためとも)・・・清和源氏。源為義の八男。強弓の武将。保元の乱で崇徳院方につき敗れ、伊豆大島に流される。
- 崇徳院・・・父は鳥羽。弟は後白河、近衛。鳥羽崩御のあと、後白河と争う(保元の乱)。
- 白縫(しらぬい)・・・阿曽忠国の一人娘で、為朝の正妻となる。勇猛な女武者。
- 八町礫紀平治大夫(はっちょうつぶてのきへいじだいふ)・・・為朝の家来。石の礫で獲物を仕留め、百発百中の腕前をもつ。
- 寧王女(ねいわんにょ)・・・琉球国の王女
- 曚雲国師(もううんこくし)・・・琉球国を簒奪しようとたくらむ怪僧。

『南総里見八犬伝』の影に隠れがちな『椿説弓張月』。馬琴作品という認識すらなく、源為朝についてもよく知らなかった私が、新訳発売の案内に誘われて手に取ったところ、予想を遥かに超える面白さでした。
おすすめポイント① 挿絵がすべて葛飾北斎という贅沢さ。
おすすめポイント② 江戸時代の作品とは思えないほど緻密に張り巡らされた伏線の数々。
おすすめポイント③ 馬琴ならではの勧善懲悪で、最後まで爽快に読める安定感。
江戸の庶民たちもこの物語に熱狂したのだろうと思うと、数百年の時を超えて同じ楽しみを味わえたようで、不思議な感慨がありました。
尾崎紅葉の「金色夜叉」/山田有策
前途洋々たるエリート青年・貫一と、美しい許嫁・宮。二人の未来は約束されていたはずでした。ところが宮は富豪の御曹司との縁談を選び、貫一を裏切ります。熱海の海岸で宮を蹴り飛ばし姿を消した貫一は、数年後、冷酷な高利貸「金色夜叉」として宮の前に現れるのです。明治の新聞小説として一世を風靡した、愛と金銭、裏切りと復讐を描いた名作です。
- 間貫一(はざまかんいち)・・・両親を亡くし鴫沢家に引き取られる。宮の婚約者。
- 鴫沢宮(しぎさわみや)・・・鴫沢家の一人娘。貫一を裏切り、富山唯継に嫁ぐ。
- 赤樫満枝(あかがしみつえ)・・・父親の借金のかたに高利貸・赤樫権三郎の妻になるが、今では美人高利貸として恐れられる。貫一に迫る。
- 荒尾譲介(あらおじょうすけ)・・・貫一の親友。失踪した貫一を案じる。
来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!
『尾崎紅葉の「金色夜叉」』山田有策、角川ソフィア文庫 2025年 p38

明治の文学作品という先入観が、良い意味で見事に覆されました。昼ドラも顔負けのドロドロした愛憎劇に、ページをめくる手が止まりません。愛より金を選んで後悔する女・宮と、金色夜叉となってもなお金を蔑む男・貫一。そして高利貸として生きる道を選ぶもう一人の女性。急展開の連続に加え、登場人物それぞれに強烈な個性があり、作者の死により未完に終わったにもかかわらず、数多くの二次創作が生まれたのも納得の衝撃作です。
今回読んだのは原作のエッセンスを紹介したダイジェスト版でしたが、次はもう少し完全な形で、この物語の世界にどっぷり浸ってみたいと思います。
きっと当時は「今月今夜~」が流行語だったのではないでしょうか。
義経じゃないほうの源平合戦/白蔵盈太
源範頼は普通の感性のいたって普通の武将。ただひとつ普通じゃないのは、兄は政略の天才・源頼朝、弟は戦の天才・源義経だったこと。非凡な兄と弟に挟まれながら、平凡ながら戦の糧食調達に精を出し、地道で堅実に生きる範頼の物語。
- 源範頼・・・頼朝の弟で義経の兄。怖い兄と戦上手の弟に挟まれて目立たない。兄への報連相は欠かさない。
- 源頼朝・・・源氏の棟梁。政治力は抜群だが、もしかして戦は苦手かも。
- 源義経・・・戦の天才だが、政治的な駆け引きに滅法弱い。無邪気過ぎる一面あり。
- 天野遠景・・・源氏の武将。範頼の理解者で相談相手。
私は、頼朝兄さまと義経という、才能にあふれ癖が強すぎる二人の兄弟の間に生まれついた自分の運命を、げっそりとした疲労感とともに呪った。
「義経じゃないほうの源平合戦」白蔵盈太、文芸社文庫 2022年 p171

源範頼という名前、確か『平家物語』や『茜唄』で義経軍の一員として出てきたような……その程度の薄い記憶しかない武将でした。そんな脇役中の脇役を主人公にするという、まずその発想に「なるほど!」と膝を打ちました。
そして実際に読んでみると、天才兄弟の間で苦労する範頼の姿が妙にリアルで、どんどん感情移入していきます。歴史小説といえば英雄譚を期待しがちですが、特別な才能を持たない「普通の人」が見た源平合戦という切り口が新鮮で、思わず自分を重ねてしまう面白さがありました。
数学物語/矢野健太郎
数の誕生から数学が発展してきた歴史まで、まるで物語を読むように楽しめる数学入門書。難解な数式や証明は登場せず、中学一年生の知識があれば誰でも読み進められる優しい構成になっています。「数学は苦手だけど、数学の世界をちょっと覗いてみたい」――そんな中学生の好奇心を刺激する一冊であり、数学から遠ざかっていた大人が改めて数学の魅力に気づくきっかけにもなる本でした。

著者は著名な数学者ですが、決して上から目線ではなく、読者に優しく語りかけるような文章で綴られています。穏やかで品のある文体は、カラフルで賑やかな最近の参考書とは一線を画すもので、読んでいるだけで知的な時間を過ごせた満足感がありました。
また、ページ数も手頃で、最後まで挫折せずに読み切れたことも嬉しいポイントです。数学の入門書でありながら、読後には確かな充実感を得られる一冊でした。
ウソを見破る統計学/神永正博
統計学と聞くと難しそうに感じますが、この本は日常生活の身近な場面を題材にしているので親しみやすい。数式は出てこず、会話形式で展開されるため、小説を読むような感覚でするすると読み進められます。読み終える頃には、「統計的に考える」とはどういうことか、なんとなくつかめてくる。そんな気軽に手に取れる一冊です。

統計学についてほとんど知識がなかった私にとって、「そもそも統計って何?」という疑問に答えてくれる、ありがたい一冊でした。今の高校生は授業で統計を習うそうですが、私たちの世代にはそんな機会はありませんでした。本書は子ども向けに易しくしすぎることもなく、大人がゼロから統計の考え方に触れるのにちょうど良い塩梅で、読んでいくうちに「なるほど、統計ってこういうものなんだ」と少しずつ見えてきた感覚がありました。
世界は経営でできている/岩尾俊兵
日々感じる閉塞感から、どうすれば抜け出せるのか。「人生を経営する」という視点が、新しい未来を開く鍵になるのではないか――そんな期待を抱いて手に取った一冊です。今の日本に足りない「経営」の本質を、軽妙な語り口とユーモアを交えて解き明かしてくれます。2025年の読み納めに相応しい、前向きな気持ちにさせてくれる良書でした。
- 本当は誰もが人生を経営しているのにそれに気付く人は少ない。
- 誤った経営概念によって人生に不条理と不合理がもたらされ続けている。
- 誰もが本来の経営概念に立ち返らないと個人も社会も豊かになれない。

「最終目的であるゴールが設定されていない、もしくは設定が間違っているから、手段を誤ってゴールにたどり着けない悲喜劇が起こる」という著者の主張に、共感しました。そして気づいたのは、自分も無意識にゴールを見失っているのではないか、ということ。改めて「ゴールは何か」を問い直し、そこへの道筋をもっと考えなければと思わされました。年の瀬に読んで良かった、新しい年への意欲を掻き立ててくれる一冊でした。



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